『 MESSIAH First Impression Book SIDE-A 』 より 一部抜粋掲載

【 2 】
「じゃぁね、夕方までには戻るから。ちゃんとお留守番してるんだよ?」
「うん」
初老の婦人は、頷いた子供を何度も振り返りながら玄関から遠離っていく。
──────一一九××年、イギリス。
少年は恐らく祖母であろうその婦人が完全に通りから見えなくなると、
玄関ポーチの脇から庭に向かって歩き始めた。
赤、ピンク、黄色、オレンジ、薄紫。
庭には色とりどりの花が植え込まれている。
余り大きくはない家だったが、庭の隅々までこうして見事なガーデニングの舞台となっており、
家主の花々への愛情が窺い知れるようだった。
中でも圧巻なのは、オールドローズとモダンローズの各種を色のトーンで分けて
まるで大きな花束のように仕立てている花壇だろうか。
少年は庭の隅にある水道からホースを引くと、
花々に掛からぬように慎重に芝生への水捲きを始めた。
穏やかな、よく晴れた日だった。
五月下旬と云う季節は、イギリスの最も美しく眩しい季節と言われている。
暗く夜の長い冬が終わり、日照時間の増加と共に一斉にこうして花々が咲き誇り始めるからだ。
少年は、慣れた手付きで水を撒いている。
静かな昼下がり。
この閑静な住宅街では、朝と夕方に通勤の車の音が響くだけで日中は人通りは殆どない。
けれど、こうして家が建ち並ぶ前は農村地帯であったこと、
そして比較的貧富の差が少ない都市のためか犯罪も少なく、
住人は皆おっとりとした気質で揉め事も余りないようだった。
「向こうの花壇はお水やってもいいんだっけ……?」
そう呟きながら、少年がふと道路の方に眼を遣った時だった。
「……っ!?」
少年の手から、ホースが落ちた。
薄い茶色の瞳が大きく見開かれて、緑色の芝生の上で真っ青なホースが蛇のようにうねる。
「おや? ……驚かせてしまったかな?」
一体いつの間にそこにその男は立っていたのか。
「いえ……あの……ちょっとびっくりして……。あと……」
「あと? 何か?」
「……あの……何年か前に……僕と会いませんでしたか?」
「え?」
男が躊躇らいなく問い返して、少年は一気に自分の顔が羞恥に赤くなっていくのが分かった。
やはり、気のせいに違いない、と思った。
両親の墓地から自分を助けてくれた男に似ているなどと、そんなことがあるはずがない。
「あ……す、済みません。何でもないです」
「そうかい?」
「………」
少年は小さく頷き、ばつが悪そうに肩を竦めてホースを拾い上げた。
流れ出てしまった水が芝生の上にたまって、小さな池のようになっている。
そうして見れば見る程、あの時に自分を助けてくれた男に似ているような気がしてくるのだった。
「少し見ていたけど……どうして薔薇の花にだけ水をやらないの?」
男に問われて、少年がはっと顔を上げる。
そして少し気恥ずかしそうにまた眼を伏せて、小さな声で答えを返す。
「……薔薇は水のやり方が難しいから、って。
今日みたいに天気がいいと、水が乾かないうちにお花が火傷しちゃうからってグランマが……」
「ああ、やっぱりそうだったのか」
男が少し可笑しそうに首を傾げる。
優しげなその笑顔に、少年は何故か安堵した。
「だから僕は、まだ薔薇の名前も教えて貰ってないんです。まだ早いって」
「そうなのか」
男がまた笑んだ。
その男は、まるで冷たい冬を具現化したような姿をしていた。
髪の色はプラチナブロンドよりも更に白く、全く色味がない。
そして瞳の色も淡い青で、肌も血の気が感じられず、
こんな晴れた日の庭に不似合いな程、寒々しい気配が全身から漂っていた。
「……薔薇の名前を教えてあげようか?」
「え!? 知ってるんですか!?」
「知ってるよ。……──────薔薇は大好きなんだ」
「そうなんですか? じゃぁね、これです! これが僕は一番好きなんです!」
そう言って少年は薔薇の花壇に走り寄って、
一際大きく咲き誇っている大輪の乳白色の花弁を指す。
「……君はそれが一番好きなのか。……それはね、『パスカリ』 って言うんだ」
「……『パスカリ』? 本当ですか!? じゃぁこれは神様のお花なんですね?
僕ちゃんと知ってるんです、パスカリって復活祭のことですよね?」
「……ああ、そうだね」
「そうか、嬉しいな! 僕が好きな、一番綺麗なお花が、神様のお祝いの花なんて」
「君は……神様を信じているんだね?」
「はい勿論! 毎日グランマから色んなお話聞いてるんです。
グランマは神様のことを凄く大切に思っていて、ミサも毎週一緒に行くんです」
「……ほう」
「じゃぁこれは? このオレンジ色のは?」
少年が今度は、赤味の強いオレンジの薔薇を指す。
すると男は迷いもせずに、薄く笑みながら答えた。
「それはね、『アナベル』 と云うんだよ」
「じゃぁこれは?」
今度は少し小さめのピンク色の花だった。
男はまた迷わずに答えた。
「そのピンクのはね、『ファンファーレ』 」
「凄ーい! じゃぁこれは!?」
「それはね、『サマーサンシャイン』。
眩しい陽射しみたいな黄色だから、そんな名前になったらしい」
「……ふぅん……そうなのか。……明るい黄色だからかな……?」
男が頷く代わりに笑む。
少年ははしゃぎながら次々と薔薇を指していく。
驚いたことに、男はどんな薔薇の名前も知らないと云うことはなかった。
少しも躊躇らわずに、次々と答えていくのだった。
「ねぇ、どうしてそんなにお花の名前に詳しいんですか? もしかして貴方も育ててるんですか?」
そうして少年が問うた時だった。
不意に、今まで穏やかな微笑っていた男の眼が哀しげに細められて、
悲哀のような色が瞳の奥に浮かんだ。
「残念だけれど……私は薔薇を育てることは出来ないんだ。とても……好きなんだけれどね」
「そうなんですか? どうして?」
「さぁ……──────?」
男がはぐらかすように微笑んだ。
まるで、それ以上の追求を拒むかのような、寂しげな笑みだった。
「ところで……君はさっきからグランマの話ばかりしているね? ご両親は?」
「…あ……」
男の言葉に、今度は少年が言葉を切った。
大好きだと言った美しい白い 『パスカリ』 を凝視めながら、
何かを言い掛けては止めるように唇を動かす。
「……ああ済まない。……もしかしたら聞いてはいけないことを聞いてしまったかな?」
男が低い声で詫びる。
すると少年は小さく首を振って答えた。
「……ううん、そうじゃないですけど………」
男は何も言わなかった。
白い大輪の薔薇と少年を、ずっと眺めていた。
「パパとママは……殺されちゃったんです」
「……殺された? それは一体……?」
「グランマは車の事故だよ、って言うけど、お葬式の時に皆が話してるの聞いたんです。
パパとママは、『化け物』 に殺されちゃったんだって、そう言ってたんです」
「……そうなのか」
「だから僕は、毎日お祈りしてるんです、その 『化け物』 に早く罰が下りますように、って」
すると。
男が笑んだ。
先刻のものとは違い、まるで悪戯を思い付いたような嬉しげな笑みだった。
けれど、その嬉しげなその瞳の更に奥深くに、
悲哀と、嫌悪と、侮蔑と、寂寥と、様々な色の感情が宿っていた。
彼が一体、今、何を考えて何を望んでいるのか。
おそらく、誰も彼の心の中を推し量ることは出来ないように思えた。
「……祈ってるだけで、いいのかい?」
「え?」
「祈っていれば、神様が願いを叶えてくれるのかい? 君が何もしなくても?」
「……どう云う意味ですか?」
「……それ程に君の両親を殺した相手が憎いのなら……君自身が復讐すべきじゃないのか?」
「復讐? でもそれは……神様が駄目だって……」
「じゃぁ君は、このままずっと祈るだけか?」
「でも……──────っ」
「もし君の眼の前に、君を殺した 『化け物』 が現れたらどうする?
それでも君はそいつの罪を赦して、神に祈るだけなのかい?」
「それは……っ!」
不意に少年が答えを拒むように躯を丸め、逃げを打った。
弾みで乳白色のパスカリの繁みに大きく脚がこすれて、散り落ちた花弁が大きく舞う。
「……憎まなければ」
男の手が伸びて、少年の腕をきつく掴む。
「……や……っ痛いよ………っ」
「……憎め、その心の総てで。……お前の総てで……その者を呪うがいい」
男の瞳の色が、変わった。
淡い薄い青だった虹彩が、一瞬で血のような深紅に変わる。
そして男はまるで射竦めるかのように少年の顔を覗き込み、そして愉しげに眼を細めた。
「あ……──────」
少年の躯が、動きを止めた。
まるで総ての神経が断ち切られてしまったかのように、男の腕の中に力無く倒れ込む。
男の腕が少年の背中に伸びる。
白いシャツの背中に、鈎爪のような鋭い爪が突き立てられる。
そしてそれは何かの印を刻み込むようにゆっくりと動いて、
シャツの背中に紅い鮮血が滲み始める。
「……憎悪を、その身に……穢れなき神の子よ…………──────」
Victimae paschali 【 1 】 【 2 】

